セガ・オブ・アメリカの元社長で、ソニー・コンピュータエンタテインメント・アメリカの設立メンバーの1人であるバーニー・ストラーが75歳で亡くなったことが明らかとなっている。
彼の友人らは『ゲームズビート』に対して彼が75歳で亡くなったと語っている。『ゲームズビート』によるとバーニー・ストラーの葬儀は6月26日に執り行われたという。
ゲーム業界のレジェンドであるバーニー・ストラーは、1980年にコインゲーム会社の共同設立者としてこの業界でのキャリアを歩み始めた。その後、アタリ社で同社のアーケード・ゲームや家庭用ゲーム機の部門に従事していた。
ソニー・コンピュータエンタテインメント・アメリカに移ると、アメリカでの「プレイステーション」ブランドの立ち上げメンバーになっている。そして、同社の初代ヴァイス・プレジデントに就任すると、初期のゲームタイトル制作にむけ多数のゲームスタジオの設立に尽力した。
その中には、『クラッシュ・バンディクー』、『スパイロ・ザ・ドラゴン』、『オッドワールド・イン ハビタント』、『リッジレーサー』など、現在でも広く親しまれているゲームタイトルも含まれている。
『ゲームズビート』によると、2015年に行ったインタヴューでバーニー・ストラーは次のように語っていた。「私はソニーで働くのが大好きでした。本当に。でも、セガで事業の再建を手伝い、新しいハードウェアを開発する仕事の誘いを受けたとき、私はそれをやりたいと思いました。他のみんなと一緒にクビになる恐怖を味わっていなければ、ソニーを辞めることはなかったでしょうけどね」
その後、バーニー・ストラーはソニー・コンピュータエンタテインメント・アメリカを離れてセガ・オブ・アメリカに入社し、最終的にはドリームキャストの開発と発売を指揮した。米ビジュアルコンセプト社を買収して子会社となる2Kスポーツを設立したのも、同社における彼の大きな功績の一つとなっている。
バーニー・ストラーは次のように述べている。「セガに入社してすぐに、『セガサターンをやめなければならない』と言いました。『セガサターンを止めて、新しいハードを生み出さなくてはならない』と。それが私のやったことです。新しいチームを連れてきて、会社に改革をもたらしました。300人ほどの社員がいましたが、私は社員を90人にまで減らし、再建を開始しました」
彼はその後もキャリアを積み続け、1999年にはマテル社に入社し、『バービー』のビデオゲームを販売した。その後、2005年にはグーグルで「ゲーム・エバンジェリスト」を務め、同社のゲーム業界への参入を支援した。
グーグルを退職した後、バーニー・ストラーはゲットフグやズーム・プラットフォーム、ジョーダン・フリーマン・グループ、コグニトイズなどの企業で新しい事業を行っていた。彼は『ゲームズビート』に対して「自分がアドバイスするCEOたちのおじいちゃんのような存在になるかもしれませんね」と冗談を言い、「やめるつもりはない」と言い切っていた。
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